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MESSHU - texts

Akiko Ikeuchi (J) & Ingrid Kæseler (DK)
OFFICINET, Bredgade 66, 1260 Copenhagen K
17. November - 17. December 2023
Opening hours Tuesday-Sunday 12-18 (12-6pm)
Curator: Ingrid Kæseler




無限のメッシュ

ネッテ・ボークダール・エベセン


メッシュは日本語で「網目、または網目状に編んだもの」を意味しますが、それは網目のように張り巡らされたネットワークを思い起こさせます。そして、世界も至る所で繋がっています。その接続はごく単純なものから想像を絶する複雑なものまであります。人も世界の一部ですが、社会学者のハルトムート・ローザ氏によると、今日の高速社会は、私たちが世界との繋がりを体験する能力を低下させていると言います。2016年に出版された彼の著書『Resonanz』では、世界との相互接触を体験することは、私たちの存在にとって必要であると結論付けられています。そして、この繋がりを「振動しながら、私たちを世界に結び付ける共鳴の糸」と表現しています。相互の繋がりは様々な手段をもって可能になります。人は、言語や思考を通して世界と繋がれるように、感覚や行動を通しても世界と繋がることができるのです。

展覧会「メッシュ」は、繋がりの体験となる様々なネットワークに焦点を当てています。展覧会自体が一種のネットワークであり、そこでは―時と空間を超えて―訪れる人たちが自然の表現についての文化的知識を取り交わすことができます。

イングリッド・ケセラーは、見る人を象徴的に描かれた季節の木々や花々のある風景画に招き入れます。作品に季節の植物を取り入れるのは、平安時代(794~1185年)の高貴な女性が身に付けた着物に着想を得ています。幾重にも重ねて着られた着物の色には菖蒲、柳、梅などの名が付けられ、その色の取り合わせは移り変わる季節を表していました。女性たちは特定の配色を選ぶことによって、自然との共感を表現していたのです。それは、古の日本の「もののあはれ」に要約されるところの、全てのものは移り変わるという体験に繋がりました。当時の着物は現存しておらず、今では実際の配色がどのようなものであったかはわかりません。しかし、当時の色には植物の名前が付いており、その名称から特定の植物を思い浮かべることはできます。そうすることによって、普段は日常の背景のように見られがちな、見慣れた自然に目が向くことになり、自然が私たちの生活に大きな位置を占めていることに気付かされます。視覚芸術家であるアマリー・スミスは、2017年の記事『Et hjerte i alt(A heart in everything)』の中で「思考は人々を世界から切り離すものではなく、世界が人々と同じように考えるのである。人と世界は絡みつくように密着している」と述べています。

池内晶子の優雅な絹糸のインスタレーションは、宙に浮いたように軽く、展示室全域に引き伸ばされ、張り巡らされています。それを支える糸は、まるで世界の四隅に、そして地球の地磁気に向かっているようです。何千もの結び目で繋ぎ合わされた糸のネットワークは、季節、光、湿度、室内の動き、つまり、その場にいる人たちからも影響を受け、それは共鳴の概念を思わせます。最後に、池内晶子の複雑かつ無限の構造は、文学研究者のティモシー・モートンを思い出させます。彼は、「自然」とは何かを考える人間の能力について集中的に探究してきました。自然の概念に対する私たちの理解は、生物圏との繋がりの体験にどのような意義をもたらしているのでしょうか。そして、それは私たちの行動にどのような影響を与えるのでしょうか。ティモシー・モートンは、2010年の記事『Ecology after Capitalism』の中で、「自然」という用語を「メッシュ」という比喩に置き換え、地球上のものは全てメッシュに含まれるとしています。メッシュの他には何もなく、全ては無限に繋がっているのです。

展覧会「メッシュ」の作品には―時と空間を超えて―全ては繋がっているという概念としての糸が張り巡らせてあります。そして、それは自然のネットワーク「メッシュ」との共鳴の体験を目に見えるものにします。




もののあわれ

ゴンヒル・ラウン・ボーグレーン

日本の美的概念「もののあわれ」の意味するところは物事の無常に対する哀愁と言えるかもしれません。「あわれ」とは、人に思わず「嗚呼(ああ)」と言わせるような物や現象に遭遇した時に生じる驚きの感情で、時には詩的な感嘆符であり、心のため息でもあります。この思いは悲しい時や切ない時にも誘発されます。「もの」とは目に見える具体的な物体のことで、世の中の儚さに対する霊的または宗教的な考察とは違うのものです。この「もの」と「あわれ」を合わせた「もののあわれ」の概念は、具体的な物事とその流動性に対する哀愁と捉えられます。世の中における美しさは儚いものであると認識することが「もののあわれ」だと言えるでしょう。

「もののあはれ」の言葉の用例は日本文学の基礎が築かれた平安時代(794-1185年)に遡ります。天皇を中心とした貴族の宮廷環境に由来する美的概念で、この概念を理解するには、特定の階級に生まれるか、古典文学の教育を受けなければなりませんでした。「もののあわれ」の美的概念は、宮廷の特権階級での美的規範と密接に絡み合っていました。11世紀に官女紫式部によって書かれた長編叙事詩、『源氏物語』には「もののあわれ」の哀愁が所々に醸し出されています。「もののあはれ」とは、強い怒りや激しい恋愛感情の表現を排除した、控えめな感性のことです。「もののあはれ」は、夕刻に到着する恋人に対する感情ではなく、恋人との露に濡れた朝方の別れに対する感情です。物語の中で、恋人が奏でる弦楽器に聞き入る女性は幸せそうですが、恋人はすでに他の女性に心移りしています。「もののあわれ」が描写するのは、そんな場面の月明かりに照らし出される庭なのでした。

江戸時代に日本の古典文学について執筆した本居宣長にとって、古典詩や散文を読む唯一の理由は「もののあわれ」の概念を追求するためでした。それは、源氏物語の登場人物が「もののあはれ」に浸る時、どのような思いを抱いたのかを理解することでした。古典文学を読むことは、物語の登場人物が「もの」に対する「あわれ」を求めたように、彼自身もその概念を理解する手段だったのです。詩は「もののあわれ」から生まれ得ますが、その逆はあり得ません。「もののあわれ」は詩を通して説明したり解説したりすることはできないのです。

「もののあわれ」は当時も今も、ごく一部の人にしか理解できない、捉えどころのない概念とされます。時折、この概念には、あたかも日本人しか理解、認識できないかのように、国家主義的、本質主義的な側面が与えられることもあります。しかし、「もののあわれ」という概念は限定的なものではなく、この「もののあわれ」の捉え方を逆にしてみることもできます。つまり、「もののあはれ」を、物事の儚さに対する人々の悲しみとしてではなく、人間に対する物事の物憂げとするのです。主語を人間から物へと移すことで、世の中の美しさを体験するは人ではなく、絶え間なく動く偉大な万物であると捉えることができるでしょう。



重ね色目(かさねいろめ) 色に対する繊細な感覚

メッテ・ホルム

平安時代(794~1185年)における高貴な女性たちは何枚もの着物を重ねて身に付け、それらの色の取り合わせで美的感覚や詩的感覚を表現しました。当初は十二枚もの着物を重ね着し、その重厚な装束は十二単と呼ばれました。時が経つにつれて、十二枚の着物は五枚または八枚となり、季節や行事または身分などによって、着物の配色が定められるようになりました。「重ね色目」とはそれらの繊細な配色のことです。

当時の着物自体は残されていませんが、宮廷女官の手記や日記には様々な色の取り合わせが書き残されています。そして、文献や絵巻物は十二単の復元を可能にする重要な手掛かりとなります。それらの記述によって、十二単は重厚な金襴の唐衣(からぎぬ)、同じく金襴の表着(うはぎ)、打衣(うちぎぬ)、その下に数枚の袿(うちき)、そして赤蘇芳の長袴(ながばかま)で構成されていたことがわかります。

重ね色目における配色は、季節、自然、そして物事が起きる瞬間と人を一体にさせようとした平安文化を象徴しているとも言えます。特定の行事には特定の色の取り合わせがあり、官女がそれを間違えることは取り返しのつかない失態となりました。今日では重ね色目を取り入れた装束は、皇室で使われる以外、目にする機会はほとんどありません。

重ね色目には、春には桜、秋には紅葉や菊など、季節の植物に因んだ色がよく使われました。ちょうど今の時期、11月には次のような色を取り合わすことができるでしょう。

楓紅葉(かえでもみじ)
蘇芳色の打衣とその下に五枚の袿(紅色、浅朽葉色、黄色、浅青色、浅青色)の組み合わせ

櫨紅葉(はじもみじ)
紅の打衣とその下に五枚の袿(蘇芳色、紅色、浅朽葉色、薄い浅朽葉色、黄色)の組み合わせ

菊の御衣八(きくのおんぞやつ)
青色の打衣とその下に八枚の袿(白色、白色、白色、浅蘇芳色、浅蘇芳色、蘇芳色、蘇芳色、濃蘇芳色)、その上に重厚な金襴の黄色の表着、さらにその上にはこちらもまた重厚な金襴の蘇芳色の唐衣の組み合わせ

重ね色目に使われたのは様々な柄や色だけではなく、ごく薄い絹の布地を重ねることで下の着物の柄や色をぼかして見せることもありました。そのように当時の色に対する感覚は非常に洗練されていて、微妙な色の濃淡も取り入れられました。多くの色には季節を思わせる花の名が付けられました。そして、日本特有の「青色」は青と緑の両方を意味したので、色が「緑」である場合は「緑青(みどりあお)」と呼ぶことでより緑であることを表現しました。

これらの色や季節に対する感覚は、現代でも着物や茶道などに見ることができます。そして、今日に至っても、色や文様に関する特別な決まりがあります。中でも季節の色や文様を早めに取り入れることは重要で、例えば桜が満開の時期に桜の柄の着物を着るのではなく、桜が開花する直前に、これから起こることを暗示するかように桜の柄を選ぶことが望ましいとされました。これはまさに「もののあわれ」の心情で、物事の移り変わりに対する無常感は現代にも通じるものでしょう。



イングリッド・ケセラー / 世界への繋がり

クリスチアーネ・フィンセン

「メッシュ」は網目や薄い紙または布を意味しますが、それは「絶対的な繋がり」または「時間と空間を超えて、ありとあらゆるものと全ての人を結び付ける無限のネットワーク」という意味にも取ることができます。そして、「メッシュ」は今回の展覧会のタイトルでもあります。多面的に「メッシュ」を自らの創作に取り入れているイングリッド・ケセラーは、日本人の芸術家・池内晶子と共に、素材としての「メッシュ」を「メッシュ」の概念と結び付けます。

確かに、ケセラーの芸術的原点は色と線ですが、彼女が常に探究するのは、それらが起こす現象自体の可能性と本質です。したがって、彼女は、色や線を「何かを定義するもの」としては扱っておらず、色と線そのものが何であるか、そして、それらがそれ自体で何をするのかに関心を持っています。そのため、彼女の焦点は、顔料の特徴、線や糸や流れの範囲、そして、それらが起こす現象自体の躍動的で、パフォーマンスに関わる特性に置かれます。

個別の作品であれ、大規模な常設装飾であれ、ケセラーのインスタレーション・アートは、常にそれが展示される場所に関連しています。同時に、それらは次々と仮の空間を形成することによって、拡大していきます。この現象を可能にするために、色と線は様々な方法で画面から切り離されます。それらは、壁に移され、そこから床に塗り続けられたり、あるいは、細長いガーゼの布や半透明の壁紙に塗られて、天井から吊るされたりします。今や色は、まるで許可を得たかのように、それ自体で、色そのものとして、動き始めます。ケセラーの介入なしに、ガーゼに染み込んだ色は滴り落ち、床に凝固したり、他の場所に塗られた色はほとんど消えてしまったりします。その結果、彼女の広範囲にわたる空間への関与は私たちの身体を活性化し、私たちの動き方を限定します。しかし、ケセラーの作品は、空間と観る人の間に、共生的で相互に形成する関係を生み出すだけではありません。それらは私たちに自分自身を感じさせ、私たちが周囲とどのように繋がっているか、そして、私たちの動きがどのように継続的に周囲の形成に関与しているのかを感じさせます。さらに、時間はケセラーの作品にとって深遠な要素をなします。なぜなら、作品は物理的な表現として、今ここに存在するだけではなく、すでに起きた過程の痕跡として、ひいては、起こり得る未来の可能性としても存在しているからです。

ケセラーの最近の作品では、時間と空間の間に新たな繋がりを創り出そうとしています。同時に、日本の古い工芸伝統に立ち返り、古の女性たちが着ていた着物を再解釈することによって、身体と色の関係を拡げようとしています。彼女は、古来から伝わる植物染料を使うことによって、季節を表す伝統色の一部を再現することに成功しました。当時の女性たちは、上質な着物を何枚も重ねて身に付けていたのですが、その着物の色は、花菖蒲、菊、つつじ、楓、その他の植物に象徴される色でした。着物の色は決して実際の植物を表すものではなく、それ自体は抽象的なシンボルでした。色が一種の符号で、言ってみれば、様々な配色はそれらの符号が文化的にコード化されたものでした。色自体がシンボルとして機能し、それをもって、女性たちは自身と季節や外の世界との繋がりを示すことができたのです。

展覧会「メッシュ」に向けて、イングリッド・ケセラーは概念的な風景を制作しました。その中の木々や花々はナイロン地で創られていますが、その布は着物の染色と同じ方法で染められています。「ボタニック・パーフォーマンス」と呼ばれる作品シリーズは開放的な構造で成り立っています。それは、よく見受ける生け花の花台やたくさんのケーブルが収納されたネットワークラックを彷彿とさせます。そこに彼女は緊密に構成された色の列を配置します。このような連続的な集積と反復は切込みと空洞によって断たれます。切り込みと空洞は、個々の色の表面を露出させ、部分的な透明性を生み出します。彼女は一つ一つの層を露出させ、所々破れた色の網を形成します。それをもって、私たちに、私たちの動きや位置に応じて、その表情が変わることに気付かせます。その結果、私たちは体をもって作品と対話することになり、私たちがその一部となっている周囲の空間や世界へのワイヤレスの接続が生まれます。



池内晶子:絹糸の網の目を通して世界を見る

イングリッド・ケセラー

池内晶子は絹糸を空間に浮遊する優美なインスタレーションへと変容させます。 無数の結び目で繋がれた絹糸から、すべてが一体となった糸のインスタレーション作品を形づくるのです。

繊細な糸による作品の制作を通して、池内は人と空間との関係性を探求していきます。 作品として、その素材と周囲の空間とに関係性が生み出され、糸と糸の間の空間は最も重要な要素となります。 空中に浮かんでいる糸の構成を前にして、見る角度によって変化していく作品と同時に、私たちはその空間を見ていることにも気が付きます。

池内は主に絹糸を作品の素材として、それを結ぶこと、切ることを集積させた、重さも実体も無いかのように見える作品を制作しています。 この繰返しの制作過程を通じて時間、場所と記憶を重層させ、全体としてバランスが保たれた作品が形づくられます。 作品に用いられる絹糸と、それが展示される場所との繋がりは重要です。 糸は展示の場の構造物と結び付くことで、社会や外の世界と繋がるからです。 作品の軸糸は方位磁針の向きに沿って張られ、さらに空間を囲む壁へと貫くように線状に伸びる糸が、目につかないものを見えるようにする働きをしています。 撚り糸である絹糸は螺旋状の撚りを内包し、結び目が作られる度にその方向が変わっていきます。 作品とその展示空間には、多重の螺旋のエネルギーが出現し、解き放たれています。 インスタレーション作品には中心があり、そこから周りへと広がりをみせ、糸の作品として目に見えてくるに至る微妙なバランスが築かれた環境へと拡大していきます。 糸の作品は、あらゆる動きや変化の影響を受けます。 遠くからの振動や、展示室にいる人々の息づかいでさえも伝わります。 ごく僅かな湿度の変化であっても糸の伸縮を生じ、作品に生き生きとした反応をもたらします。 絹糸と空気、光との融合によって、作品は目にみえるものから見えないものへ、形あるものから儚いものへとその眺めを変化させるのです。



によって翻訳された高鍋恵子



Reference:

Ingrid Kæseler - Akiko Ikeuchi (2023) MESHHU, Published by Lenaukæseler, ISBN 978-87-975001-0-1





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